「写真に心は写るのか」
なんて、twitterの方で議論?が盛り上がっているらしいですね。一つのツイートを教えてもらっただけなので実は大した盛り上がってはないかもしれませんw。
なんか、面白いなと思ったのでちょっと書いてみます。
解釈の違い
結局は、写真に「写る心」が議論しているもの同士で解釈が異なっているということに過ぎないのだと思います。
Aの人は「撮影者の心がにじみ出てこのような光を探すことができて撮影できたのだ」といい
Bの人は「同じとき同じ場所で同じ条件で撮ればロボットが撮っても同じだ」といい
さらにCの人は「ポートレートこそ撮影者の心がモデルに伝わり心が写る」とかいう。
そんな感じじゃないでしょうか。
Aの人は見る側の感性で心が写っているように感じていて
Bの人は単に写っている物理的なもののことのみを言っており
Cの人は撮影のコミュニケーション手法のことを言っています。
そもそも違うことを言っているので話があうはずがありません。
純粋に写真に画像として写るという意味で言えばBの人が正解とも思えます。
モデルの表情が撮影者の心の鏡というならCの人が正解でしょうし、受け手に伝わることこそ心だとも言えなくもありません。
ようは3人が思っている「写る心」の意味が違うのです。
料理に例えれば
よく、全く同じレシピと方法で料理を作っても、愛情があると美味しくなるなんて言いますが、これも厳密に言えばそんなはずはありません。
ここでいう愛情というのは、大半が食べる側の好みに合わせたり、温度を変えたり、器を変えたりで、そもそも条件が違います。レシピや手法を変えてしまっています。
愛する人が作るから美味しいというのも、それは気分の問題です。
仲間と大勢で食べると美味しいというのも、美味しい気分で食べれるというだけで、味自体に違いが起こるはずはありません。
ようは、これも条件が違っていたり、受け手の気分の問題だったりで、どこまでを「味」と定義するかで変わることでしょう。
見る側の感受性に委ねられる
自分はデザインを生業としています。
見る側の感受性を多く深く刺激することもデザインをする上で重要なことの一つですが、見る側の感受性って平均値こそあるものの、結構響かない人には全然響かないんですよね。
それがほんと、驚くほど感じ方が平均値から外れている人やなにも感じない人が、かなりいるんですよ。
自分のような職業はもちろん、写真を撮るような人からしてみると驚くくらいなにも感じない人がいます。
なのでいくら撮影者が心を込めようが感情フルマックスで撮ろうが、見る側にとってはそれぞれでしかないのです。
いかに多くの人に深く刺さるか
もちろんある程度の経験者や識者が見れば方向性はまとまりがつきますが、SNSなどで様々な人がいる中ではいろんな受け取られ方をするでしょう。
例えば撮影者が悲しみを撮影したつもりでも、20%の人は喜びに感じるかもしれませんし40%の人はなにも感じないかもしれません。
悲しみを写したなら、これを80%90%となるべく多くの人に悲しみが伝わるような撮影しよりその感情を深く伝えることが「心が写る」ということでしょうか。
それはどちらかというとテクニックですよね。
でも、見る人が「心が写っている」と感じる写真というのは、理論的に解釈でき手法の一つとして確立することができるはずです。
それが偶然的に撮れることも多いでしょう。
それが心が写っているということなのかもしれません。
写真に心は写らないが、写っているように感じさせることはできる。
自分なりに考えてみた結果、非常にデザイナー的な答えになった気はしますが「写真に心は写らないが、写っているように感じさせることはできる。」という結論に至りました。
マスを狙うのかターゲットを絞るのか、それによっても手法は変わってきますし、デザインのようなコミュニケーションなのか、芸術的自己表現として捉えるのかによっても変わるでしょう。
ターゲットを絞るなら直接的な表現よりも想像力を掻き立てる余地を残した方がより「心」として伝わるかもしれません。
自分の場合は、どちらかというと仕事でそういうことをやっているので、逆に写真ではその場その場で自分の感受性を試して瞬発力のようなものを鍛えている感じで撮影することが多いです。
とは言え、たまーにはちょっとデザイン的に受け手にどう伝えるかを考えて撮影することもあります。仕事で撮る時もありますしね。
客観視を交えながらじっくり考えて、写真の題材や構図や色彩を狙って撮影するのも楽しいものだと思いますよ。
狙って写真に心を写し込んでみましょうかね〜
撮れた!どうだ!伝われ俺の心!